古/いにしえの面影       其の五百八

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

 撮影日  2009年06月11日 木曜日
大阪府交野市私部(かたの市きさべ)U
八幡からの東高野街道沿いからは少し外れ
傍示越街道沿い。。。
やはり難解地名…
「私部(きさいちべ)」が現在の地名「私部(きさべ)」である。
「きさいちベ」、これは皇后〈后、きさき)のため、いろいろな仕事をしたり
、世話をしたりする役所のことであり、かつ、
その世話をする人々を指していう言葉でもある。
正式には「私府(きさいふ)」と言い、その任に当たる人を「私官(きさいかん)」と言った。
この言葉はもともと中国で使われていたもので、後漢書にはこれに「后」の字を当てて
「きさき」と読ませている。
この制度というか、あるいは言葉を日本に持ち込み「私」の字を当てて
「きさき」「きさい」と読ませていたのである。
 后のために付けられた土地を耕作する農民や身の回りの世話をする人々などがいて、彼らを総称して「私部(きさいちべ)」と言った。いわゆる部民(べのたみ)である。

豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のち推古天皇)の時代
大和の大豪族である蘇我氏と物部(もののべ)氏が権力を手中に
収めようと勢カ争いの最中であった

物部守屋(もののべのもりや)は、物部氏にとって重要な土地である交野の地を
皇后に献上することによって、天皇への接近を図り、勢カを盛り返そうとしたのであった。
物部氏は河内の八尾辺りと交野が勢カの中心地でもあったのである。
その一つの勢力の中心を皇后に渡したのであるから、
相当の犠牲であったであろうと思われる。
 このときから交野は皇后領となり、交野の村々は皇后の部民に組み入れられたのである。交野皇后領の中心になったのが私市であり、私部であったと思われる。

(ふるさと交野の地名:HPより)
Kさんの個展向けて〜
(寄り道ですね^^;)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

交野市役所前に到着。。
青年会館を問えば〜
えっ?まだ先…

※交野山に笑われました〜

気になりませんか〜?
ここから街道が始まると
手持ちの資料によれば。。。

※初期炎症、皮膚病、虫刺されに〜
「ソユ」は富山市上市町の
池田義恵商店さんの製品なのですね。
(HP:レトロ看板写真館さん参照)

坂道なのです。

※綺麗に整備された
お庭も〜

住吉神社御旅所〜
茅葺ですやん!

※へぇ〜こんなに賑やかにお祭りされるのですね〜
後に神社にて禰宜さんに
資料を頂きました(大感謝!!)

大好きですねん!
茅葺屋根。。

※うっとりと〜
H.4に屋根の吹き替えをされたとか。

玉垣には市場町の銘が〜

※小高い丘になっていて
御神輿は単独で村中を
3時間ほど巡行されるとか〜
その時、神官は本社で
帰りを待つとか。。

加工された石柱〜
御旅所の石材か?

街中を気は急きながら〜
のんびりと。。

※辻も静かに。。

石垣の補修材も
軒下に確保して。。

※茅の輪潜り〜
夏を迎えの
祭りして〜

半夏生も。。

自画自賛!
本日のBESTショット!!

※雨垂れ受けは
コンクリ製の用水桶
薄いですよね〜

綱渡りのような狭い路地の
マルフク看板

※道路拡幅の為に
失礼〜って。。
立ち木が境界??

黒壁、白線、出窓〜
家屋門。。

※新旧住宅のニラメッコ。。

ん?かりあげ君??

※UFOみたいな
カット!

カリアゲ君の横に
元、倉庫でしょうか?

※もともと条里制で
稲作の盛んなところ
寝屋川水系の河川も有るし〜
米蔵でしょうか?

水との拘り
石積に田に
引き込み水路
なのでしょうね。

※この先は住吉神社御旅所に
向かっての坂路です。

軒の低い農家の佇まい

※黒壁を残して欲しいものです。
変わるものと変わらんもの〜
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら〜
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