古/いにしえの面影       其の五百七

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

 撮影日  2009年06月20日 木曜日
大阪府交野市私部(かたの市きさべ)T
八幡からの東高野街道沿いからは少し外れ
傍示越街道沿い。。。
やはり難解地名…
「私部(きさいちべ)」が現在の地名「私部(きさべ)」である。
「きさいちベ」、これは皇后〈后、きさき)のため、いろいろな仕事をしたり
、世話をしたりする役所のことであり、かつ、
その世話をする人々を指していう言葉でもある。
正式には「私府(きさいふ)」と言い、その任に当たる人を「私官(きさいかん)」と言った。
この言葉はもともと中国で使われていたもので、後漢書にはこれに「后」の字を当てて
「きさき」と読ませている。
この制度というか、あるいは言葉を日本に持ち込み「私」の字を当てて
「きさき」「きさい」と読ませていたのである。
 后のために付けられた土地を耕作する農民や身の回りの世話をする人々などがいて、彼らを総称して「私部(きさいちべ)」と言った。いわゆる部民(べのたみ)である。

豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のち推古天皇)の時代
大和の大豪族である蘇我氏と物部(もののべ)氏が権力を手中に
収めようと勢カ争いの最中であった

物部守屋(もののべのもりや)は、物部氏にとって重要な土地である交野の地を
皇后に献上することによって、天皇への接近を図り、勢カを盛り返そうとしたのであった。
物部氏は河内の八尾辺りと交野が勢カの中心地でもあったのである。
その一つの勢力の中心を皇后に渡したのであるから、
相当の犠牲であったであろうと思われる。
 このときから交野は皇后領となり、交野の村々は皇后の部民に組み入れられたのである。交野皇后領の中心になったのが私市であり、私部であったと思われる。

(ふるさと交野の地名:HPより)
Kさんの個展向けて〜
(寄り道ですね^^;)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

先は傍示越街道の入り口。。

※通行禁止と聞けば行きたくなる。。
自然順回路ですって。

自然順回路はこちら〜

※でも、私はこちら。。。
先で灯篭が呼んでいます。

表札の下に
鰯の頭も信心から〜
これだけしか
目に付きませんでしたわ本日。。

※ナツスイセンが咲いてました。

振り仮名入り
町名プレート。。

※呼んでいたのは
個人の御宅。。

白木板がコナレテ。。

※綺麗ですがね。。
洗わな〜

路地の突き当たり〜
ちょいと不安に。
私は何処状態。。。

※おお〜っと
開けて安心しました。

大戸を開けて〜屋門の中に
エエ空間が…
表札の下は、
伝言入れでしょうか?

※街道を
ツバクロいにしえ横切りて…

消火栓は何処に??
私は此処に。。

※唖然とす 甍は5重に 重なりつ〜

この辺りのスタンダードの道幅。

※ニコニコしながら
進みます〜Kさんゴメン!着きません。。

もしかして茅葺被せ?
煙抜きは後付けでしょうか??

※元から土塀剥き出しでしょうか?
漆喰の跡が無い〜
削ったのは誰??

路地には
背伸びしている
トタン壁

※秋は綺麗でしょうね〜
柿が。。。

本瓦が少ない地区です。
鬼瓦はチラホラと〜

※白壁屋門。。

焼板にも時が止まって。。

※何度見てもあきません〜

石垣で傾斜地が分かりますよね。

※立派な鐘楼
相善寺さん

大好きな路地です〜

※在中川は軒下借りて…
変わるものと変わらんもの〜
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら〜
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